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第48回 富士山は登る山ではない

富士山は登る山ではない。瓦礫ばかりで木がない。したがって、緑がない。花も咲かない。動物もいない。小鳥の鳴き声も聞こえない。瓦礫の山には何もない。どこがいいのか。富士山に登る人は単に日本一高いからというのが理由だろう。頂上から下界を眺めたいだけなのだ。要するにお山の大将になりたいのだ。サルと同じだ。サルは高い木に登りたがる。そして、ボスになりたがる。

山頂まで登ってそして降りてくる、それが文字通り登山だ。登って降りるだけ、私はそんな馬鹿なことはしない。そもそも山は登って降りるものではない。山は歩くものだ。山の中を歩き回るのだ。山登りではなく、山歩きだ。自然の中を歩いて自然から英気をもらうのだ。それが山歩きの目的だ。そのためには、緑が必要だ、花も必要だ。動物も必要だ。人間は昔から緑に囲まれ、動物とともに暮らしてきた。だから、緑が必要なのだ。瓦礫の山は人間が行くところではない。

そのうえ、富士山はゴミの山でもある。富士山が自然遺産にならなかったのは、ゴミの山だからだ。日本人なら誰でも知っていよう。しかし、そのゴミを誰が捨てているかを知っているだろうか。登山者ではない、観光客でもない。地元の住民なのだ。ゴミを見ればわかるという。ゴミが捨ててある場所を見ればわかるという。登山者や観光客が捨てないようなゴミが、登山者や観光客が行かないような場所に捨ててあるのだ。廃棄処分するのに金がかかる冷蔵庫や洗濯機などの家電製品を地元の住民が捨てる。処分するのにコストがかかる産業廃棄物を地元の産廃業者が捨てる。通勤通学する地元の人たちが空き缶やペットボトルなどを通勤通学の途中でポイと捨てる。づっと昔からそうしていたという。それを地元のお役所はづっと黙認していた。だからゴミの山になってしまった。

自然遺産に登録申請することになっても地元の人たちはゴミを片付けるどころか捨てるのを止めなかった。その結果、自然遺産には登録できなかったのだ。そして、そのことを知った多くの日本人が、ボランティアでゴミ拾いを始めた。しかし、いたちごっこであるという。登山家で富士山のゴミ拾いを先導して行っている野口健氏がテレビでそう言っていた。ゴミを拾っている人たちを横目で見ながら、地元の人たちは現在でもゴミを捨てているのだ。

この度、富士山が世界の文化遺産になった。地元の人たちは、浮かれている。これから登山者や観光客が増えるから、儲かると。そのうえ、登山者や観光客から料金を取ってゴミの処理をするという。その前に、まず、地元の人たちがゴミを捨てないようにしなければいけないだろう。そのために、どうするかについては未だに決まっていない。登山者や観光客から金を取ることだけが先に決まった。

地元の人たちは、本気になってゴミ対策を考えなくてはいけない。地元の人たちは登山者や観光客に模範を示さなければいけない。なぜなら、前例があるからだ。屋久島が世界遺産になってからゴミだらけになったのだ。世界遺産になってからゴミだらけになったのだから、明らかに観光客やハイカーが捨てたゴミである。富士山も根本的な対策を立てて実施しないと、ますますゴミの山になるだろう。私は瓦礫とゴミの山などに登りたいとは思わない。

そもそも富士山は遠くから眺める山だ。遠くから眺めている方がいい。姿かたちが美しいからだ。しかし、そうは言っても、日本人である以上、一生に一度は登っておきたいと思う。昔から誰しもそう思った。私もそう思う。しかし、一度だけ登ればいい。二度は登りたくない。私は若いころからそう思っていた。それで、還暦を過ぎたら登ろうと思っていた。

ところが、還暦を過ぎるころに、登山ブールがやってきて、猫も杓子も富士山に登るようになった。テレビで富士山の混雑ぶりを見ると、登る気がしなくなった。冬ならあまり人もいないだろうから冬に登ろうか、とも思った。しかし、何度も冬の北アルプスを登った私でも、冬の富士山は怖い。特に風が怖い。北アルプスで何度も風で飛ばされそうになったが、冬の富士山の風は北アルプスの比ではない。風速50m以上になるという。それで、人が比較的少なくなる春や秋に登ろうと思った。

ところが、今度は富士山が世界文化遺産になってしまった。となると、夏は言うまでもないが、春も秋も混雑する。そうなれば、ますます登る気がしなくなる。では、どうするか。まあ、心配は要らない。というのも、熊野古道の例を見れば分かるからだ。熊野古道が世界遺産になったとたんに人が大勢押し寄せた。ところが、現在は閑古鳥が鳴いているという。世界遺産になったところはどこもそうらしい。最初だけ混むのだ。そして、しばらくすると混まなくなる。しかも、以前よりも人が少なくなるのだ。

「熱しやすく、冷めやすい」のが日本人の性格である。この日本人の性格については、和辻哲郎氏の著書『風土』を読めばわかる。温帯モンスーン気候がこういう性格を作ったようだ。日本は春夏秋冬、季節が明確だ。春は春らしく、夏は夏らしく、秋は秋らしく、そして冬は冬らしい。それが日本だ。そんな国は世界中で日本だけだ。だから、日本人は移り気だ。物事にすぐに飽きる。そして、次に来るものに恋焦がれる。たとえば、日本人はサクラの花が好きだ。早く咲かないかと恋焦がれる。しかし、咲いたら、数日で飽きる。サクラはパッと咲いてパッと散るのがいいと日本人は考える。パッと咲いてパッと散るように、日本人はすぐに熱くなって、すぐに冷める。よって、数年すれば富士山にも閑古鳥が鳴くだろう。そうなってから、登ればいいのだ。

そのころ私はおそらく80歳ぐらいになっているだろう。富士山に登るには80歳ぐらいがちょうどいいではないか。それまで、いろいろな山に登って木々の緑や花などを楽しむことにしよう。もしかすると90歳ぐらいまで、富士山は混んでいるかもしれない。そうなれば、そうなったで、90歳になってから登ればいい。そして、富士山の山頂でそのまま昇天できればなおいい。

アメリカインディアンは年を取ると、自分で死に場所を探すらしい。たいていは近くの山の頂上だそうだ。自分が決めた死に場所にいつ行くか、時を待っているという。これが難しい。なぜなら、その山頂に自分で登らなければならないからだ。その体力が残っているうちに登らなければならない。ある日、朝起きて空を見上げ、今日は死ぬのにいい日だ、今日でしょ! と思ったとき、死に場所に登るのだ。日本の姨捨山伝説よりいい方法ではないか。自分で決めて自分の足で登るのだから。姨捨山伝説では息子が姨(老婆)をいつ山へ連れて行くかを決めて、おぶって山に登り適当な場所に捨ててくる。

私もアメリカインディアンを見習って、富士山の山頂まで登る体力が残っているときに登って、山頂で死ぬことにしよう。ところで、アメリカインディアンにも間抜けな人がいるらしい。今日は死ぬのにいい日だ、と思って山頂まで登って、体を横たえて静かに死を待っていたら、雨が降ってきた。そこで、今日は死ぬにはあまりいい日ではない、と思って山を降りてきた。そんな人もいるらしい。あるいは、山頂にたどり着いて、これでようやく安心して死ねる、と思ったが、腹が減ってきた。そこで、今日はまだ死ぬ日ではない、と思って、山を降りてきた。という人もいるそうだ。

私も間抜けなアメリカインディアンのようになるかもしれない。

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