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第36回 北アルプスの中村新道を歩いていたら

徳本峠から大滝山へ向って中村新道を歩いていた。徳本峠を出発してしばらく歩いたところで、ふと何かの気配を感じて足を止めた。目を木の上の方に向けた時に動物と目が合った。よく見ると木の枝に猿がいてこちらを見ていた。木の葉が茂っていて薄暗いのですぐには猿だとはわからなかった。1匹だけではない。周辺の枝に数匹、いや数十匹の猿がいてすべてがこちらを見ていた。一瞬ビクッとしたが、たかが猿である。しかし、油断は禁物、もし一斉にかかって来られたらまずい。戦う準備をした。近くにあった棒切れを手に持って、最初に目が合った猿を睨みつけながらゆっくりと歩き無事に通り過ぎた。

時々振り返りながらしばらく歩いてから、もう大丈夫だと思ったところで一休みすることにした。コーヒーを飲みながら休んでいると、遠くの方から「おーい」「おーい」と人が呼んでいるような声がする。聞こえるか聞こえないかの小さな声なのでなんだろうと思った。この道は一般道であるがめったに人が歩かない道である。しかも、なぜ、「おーい」と呼んでいるのかがよくわからない。しかも、その声は今来た道の方からでもないし、道の先の方からでもない。谷の方から聞こえて来るのだ。この道は尾根伝いに設けられた一本道だし、谷の方に人がいるとは思えない。それで、たぶん気のせいだろうと思い、また歩き始めた。

歩きながら考えた。もしかすると谷の方から聞こえたのは風かこだまのためかもしれない。尾根伝いの道にいる人が呼んでいるのかもしれない。猿かそれとも熊にでも襲われたのだろうか。しかし、もしそうであれば、「助けてくれー」などと叫ぶはずである。気にしながらもよくわからないので歩き続けた。

30分ほどたってから、また、「おーい」「おーい」と呼ぶ声がする。立ち止まって、聞き耳を立てた。「おーい」「おーい」今度ははっきりと聞こえた。近い。しかも、谷の方からである。すると、「誰かいませんかー」「いたら返事をしてくださーい」と言った。そこで、「おーい」「どうしたんですかー」と答えた。すると、何か奇声が聞こえた。そして、「そこを動かないでくださーい」「そこへ行きますからー」と言っている。そこで、しばらく黙って待っていたら、今度は「おーい」「声を出してくださーい」「どこにいるかわかりませーん」と言った。そこで、「おーい」「ここですよー」と答えた。すると、「声を出し続けてくださーい」「場所がわかりませーん」と言う。そこで、「ここですよー」「ここですよー」と何度も言った。

ようやく谷の方から人が登って来て、私を見ると、「あぁ、助かったー」「助かったー」「助かった」「助かった」「助かった」と何度も言って、へたり込んだ。そして、「道に迷ってしまった」と言う。「水があったら一杯飲ませてもらえませんか」と言うので、好きなだけ飲んでいいよと言って水筒を渡した。すると、水をごくごく飲んでから、「あなたは命の恩人だ」と言う。

落ち着いたようなので、なぜ道に迷ったりしたんだ、この道は一本道だし、道ははっきりついているし、迷うようなところではないはずだと言うと、次のように言った。「徳本峠の小屋を出てしばらく歩いたらのどが渇いたので水を飲もうとしたら水筒の中に水が入っていなかった。小屋を出るときに水筒に水を入れるのを忘れた。そこで、小屋まで引き返そうかと思ったが、谷の方から水音が聞こえるので、谷に下りることにした。谷に下りた方が小屋まで引き返すよりづっと近いと思った。でも、谷に下りると、崖のようなところばかりで水を汲めるような場所が見つからない。そこで、水を汲める場所を探して谷に沿って歩いたのだけれど、どこまで行ってもそのような場所が見つからない。そこで、これは引き返した方がいいと思って引き返したのだが、その途中で道に迷ってしまった」と。

「ずいぶん馬鹿なことをしたもんだな、谷に下りるなんて」と私は言った。そして、「谷に下りても複雑な地形ではないから、地図を見ながら歩いたのなら、すぐに元の道に戻れるはずだが、なぜ道に迷ったんだ」と聞くと、地図は持っていないと言う。私はあきれた。地図を持たずに、谷に下りるなんて。地図を持っていれば尾根と谷との位置関係もわかるし、等高線の間隔で谷の勾配もおよそわかる。それに、磁石があれば方角がわかるので、道の位置もわかる。

なぜ「おーい」「おーい」と叫んだのか、「おーい」と叫んでも、なんで叫んでいるのかわからないではないか、と言ったら、「おーい」と呼べば「おーい」と答えてくれるだろうと思ったから、と言った。馬鹿じゃないの、こだまのように声が帰ってきても緊急事態だとは誰も思わない。「誰かいませんかー」とか、「助けてくれー」とか言えばもっと早く返事ができたよ、と私が言ったら、そうだなと彼が言った。おそらく気が動転していたのだろう。たまたま私が近くを歩いていたから返事が出来たが、この道はほとんど人が通らない道なのだ。

彼が助かった理由は、たまたま私が近くを歩いていて、彼の呼ぶ声を聞きつけ、返事をしたからではない。彼が、引き返した方が良いと判断し、登れば道に出ると考えて登りつづけたからである。登りつづければ必ず尾根に出て道に出る。ところが通常、人はのどが渇いて水が飲みたいときには谷に下りようとするし、そのうえ疲れているときには決して登ろうとはしない。だから、道に迷った時に道に戻れず遭難してしまうのである。

ところで、「途中で猿の群れに会わなかったか」と彼に聞いたら、「何度も会った」と言う。猿は人がいると近くに寄ってくる。何か餌にありつけると思うのかもしれない。山を歩いていて猿に出会うことは良くある。その時に、決して背中を向けて走って逃げてはいけない。すべての野生動物がそうであるように、逃げれば必ず追いかけてくる。しかも、人間より動物の方が早いから必ず追いついて襲われる。猿でも野犬でも熊でも、出会ったら決して逃げてはいけない。背中を見せてはいけない。正面を向いてゆっくり後ずさりするように離れるのがいい。ただし、正面を向いても目を見ないほうが良い。もし、目が合ってしまったら睨み付けることだ。目をそらすと、相手はこちらが弱いと判断し襲ってくる。もし、襲ってきたら戦うしかない。

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