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第13回 大自然の聖域

後立山の稜線をのんびりと歩いていた。澄みきった青空には小さな鰯雲が浮かんでいる。しかし、風があって、背中を押す。時折、長野県側から強い風が吹いてきて、富山県側に体を持っていかれる。そんなときには登山道からかなりはみ出てしまうが、心配は要らない。長野県側は氷河地形で切り立った崖になっているが、富山県側は比較的なだらかな斜面になっているのだ。後立山の稜線は大部分がこうなっている。この斜面は、こぶし大の丸い岩が敷き詰められたようになっていて、歩いたらおもしろそうな場所なのである。この稜線を歩いていると、時折、このなだらかな岩の斜面をはるか下にある町まで歩いてみたい、という衝動に駆られるのである。

後ろの方から帽子が飛んできて、登山道をころがっていった。その後を少女がキャーキャー言いながら、私の横をすり抜けて帽子を追いかけて行った。こんな光景を見ていると、ここが北アルプスの稜線だということを忘れてしまう。帽子は登山道を外れて富山県側のなだらかな斜面を7、8m下った所で止まった。それを取りに行こうと、少女は斜面を下りて行った。帽子を手にすると振り向いて、後から追いかけて来た父親に手を振って笑った。

少女が斜面を登って登山道に戻ろうと数歩歩いたとき、足元の周辺の岩が動き、少女は下に引き戻された。少女は「キャー!」と大声を上げ、その場にうずくまってしまった。幸い、岩の動きはすぐに止まったが、少女はもう斜面を登ろうとはしなかった。

父親は、どうして良いかわからず、おろおろするばかりである。私はザックからツェルト(非常用簡易テント)の張り綱を出し、綱の端に小石を結びつけて彼女の方に投げた。そして、この綱につかまってゆっくり登って来るようにと言った。その子はちょっとこちらを見たが、怖がってどうしても登ろうとしない。行って連れて来るしかないのだ。だが、父親は怖がって連れて来ようとはしない。無理もない。岩の斜面はなだらかとはいえ、はるか3千メートル下の谷へ続いているのだ。もし、また、岩が動き、止まらなかったとしたら谷まで下っていってしまう。そのことを父親は理解しているのである。

私は何とかなるだろうと思い、岩が動かないように注意しながらゆっくりと下りて行き、少女に近づいた。こちらを見る少女の顔は青ざめ、体は小刻みに震えていた。手を差し伸べたが、少女は私の手を掴もうとしない。一ヵ所に体重をかけると岩が動く危険があるので、あまり少女に近づけない。しかし、少女が私の手をつかもうとしないかぎり私から近づくしかない。そこで私は一気に少女に近づき、少女を無造作に抱え、一気に斜面を登り始めた。

すると、やはり周辺の岩が動き始めた。すぐに足を止めたが、今度は岩の動きが止まらない。ゆっくりではあるが、ドミノ倒しのように動きが次々に広がっていく。そして私は、づづっ、づづっ、と谷に引きづり込まれていく。猶予はない、急いで駆け登るしかないと思った瞬間、幅数百メートルにわたって、無数の岩が一斉に斜面を落ち始めた。岩なだれが発生したのだ。足のむこうずねに岩が次々と当たる。痛くて思わずしゃがみ込むと、今度は多くの岩が体全体にぶつかってくる。頭にも当たり激痛が襲った。私は気が遠くなって、そのまま岩なだれに巻き込まれ、少女といっしょに谷へ向かって落ちて行くのをうっすらと感じていた。

どのくらい時間が経ったかよくわからないが、意識が戻った。頭が不確かながらも私は少女を両手で抱え、なだれが止まらない岩の斜面を夢中で駆け登った。岩に何度も引き倒されたがそのたびに起き上がり、全力でひたすら斜面を駆け登った。無数の岩が足に当ったが、なぜか痛みを感じなかった。ようやく登山道にたどり着くと、私は少女を放り投げ、自分も体を投げ出した。私は全身血だらけになっていた。

何十万年、いや、何百万年という長い年月の間、風雪にさらされ丸く削られた無数の岩が、微妙なバランスを保っていたのである。それが人の重みでバランスを崩し、岩なだれを発生させてしまったのだ。太古の昔から誰も足を踏み入れたことがない大自然の聖域に、足を踏み入れてしまったのだ。大自然はやはり、計り知れない偉大な存在なのである。

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