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第12回 ナイヤガラの滝

松本市にアルプス公園というのがある。唐松の林に囲まれた広い草地の公園で、アルプス山岳館を始めいろいろな施設がある。広い草地には、いろいろな動物がいて、草の上に座って弁当を食べているとリスやウサギが寄ってくる。標高770メートルのここから眺める北アルプスは天下一品である。目の前には、大滝、蝶、常念と続く尾根があって、さらに遠く、大天井岳、燕岳へと続いている。中でもひときわ目立つのは常念岳である。そして、眼下には、安曇野が広がっていて、上高地から雪解け水を運ぶ梓川が流れている。

松本市民は常念岳が好きだ。松本から身近に見える高い山は常念岳だからである。松本市民は常念岳の雪型を見て春夏秋冬の訪れを知るのである。この常念岳に一度は登って見たいと思うのが松本市民の願いである。私もかつて松本市民であったころ、やはり、一度はこの常念岳に登ってみたいと思っていた。そのころ私は、アルプス公園のすぐ近くに住んでいたので、暇さえあればこの公園に来て常念岳を眺めた。

そのころはまだ、アルプス公園として整備されていなくて、単なる、だだっ広い草地であった。その昔、馬の飼畜場になっていたらしく、草地の隅のほうには朽ち果てた馬小屋がたくさんあり、そこかしこに馬の糞がたくさん落ちていた。しかし、ここにはウサギやリスやキジなどの野生動物がたくさんいて心を和ましてくれた。

朝早く日の出のころに行くと、運がよければ常念岳が真っ赤に染まるのを見ることができた。モルゲンロートである。また、夕方になるとあたりを赤紫色に染め、真っ赤な太陽が常念を黒くくっきりと浮き出して、ゆっくりと山の後ろに沈んでいくのを見ることができた。農作業の手を休めてこの美しい光景を眺めている農夫もよく見かけた。あの有名な画家のミレーが子供のころに、農作業を手伝いながら夕日が山に沈む美しい光景を見て感動していると、ミレーの父親は、「My Son, It is God.」と言ったという。そのときミレーは画家になろうと決心したという。そのときにミレーが見た光景もきっと同じように美しかったにちがいない。毎日のように見ているのに、いつ見ても美しい。この景色に魅せられて松本に引越ししたという人も多いと聞く。

私が常念岳に初めて登ったのは、それから十年以上後になってからである。松本に住んでいたのは学生時代であり、山が好きで松本の学校に入学したにもかかわらず、そのころは金がなくて北アルプスには一度も登れず、松本周辺の低山日帰りハイキングでお茶を濁していた。北アルプスに登るには数泊しなければならないが、その金があれば一ヶ月は学生寮で飯が食えた。それに、登山靴やテントを買う金もなかった。山というのは金がかかるものであり、貧乏学生にとっては金持ちの遊びに思えた。そして、いつかきっと常念岳に登ろうと決心した。

づっと思い焦がれていたその山についに登れる日が来たのである。嬉しかった。本当に嬉しかった。はじめての北アルプス山行であり、はじめての常念岳登山であった。前日は松本の知り合いの家に泊めてもらい、第一日目、朝一番のバスで上高地に入った。徳沢から蝶が岳に登り、その日は蝶が岳ヒュッテに泊まった。蝶が岳は槍穂高連峰の展望のよいところとして知られているが、私は常念の方ばかり眺めていた。

第二日目、いよいよ憧れの常念に登る日である。天気もよく、うきうきしていた。標高3000メートルの尾根伝いに歩く天井漫歩である。眼下には安曇野が広がっている。かつて何度も眺めた尾根に今はいる。なんとも嬉しく不思議な気がした。松本のアルプス公園はどのあたりだろうか、と右側を眺めながら歩いた。ほとんどの人は左側の槍穂高連峰を眺めながら歩いているのに。

しばらく進み、小さなピークに登ると常念岳の全容が見えてきた。また、常念に続く尾根道がはっきりと見え、この道をたどっていけば常念に到着すると思うといっそう嬉しくなった。尾根の先のほうを見ると、途中で道の一部がガスで消えているのがわかった。尾根に向かって安曇野側からガスが湧き出しているのである。このガスは尾根に向かって登るように湧き、そして尾根を乗り越えて槍沢のほうへと流れ下っている。

何か面白さを感じてしばらく眺めていると、しだいにガスが濃くなり、また、その幅が広がって尾根を広く覆うようになった。遠くから見ているのだが道がしだいに消えていくのを見ると、何か恐ろしいものを感じた。後で聞いた話だが、このガスはナイヤガラの滝と呼ばれているという。まさにナイヤガラの滝のようであった。大勢の人が登っているので、心配することもないだろうと思い、歩を進めた。

ついにガスの中に入った。足元に気をつけながら歩いていると、後ろから子供がはしゃぎながら走ってきて追い越していった。子供はガスを面白がっているようだ。突然、ガスが足元から首の辺りまで上がってきた。しかも、濃くなってきた。首の辺りにガスの流れの境い目が来ているので、周囲の景色はよく見えるが、首の辺りから下はガスでよく見えない。よって、道もよく見えないので、道を探しながら歩く。時折、自分の足が見えなくなって立ち止まる。かなり濃いガスである。これは十分に気をつけなければいけないと思いながら、腰を落として道を確認しながらゆっくりと歩を進める。立ち上がると、首から上はよく見えるので、常念はじめ、周囲の景色ははっきりと見える。しかし、首から下がよく見えないので、まるで、乳白色の温泉につかっているようである。

ふと、先ほど追い越していった子供のことを思い出した。危険である。尾根道は狭く、時折、道が見えなくなるのである。誤って道を踏みはずしたら、谷に落ちてしまう。そうなれば絶対に命はない。そう考えていると、突然、すぐ近くから子供の泣き声が聞こえてきた。「おかぁさ~ん、おとぅさ~ん」と叫びながら泣いている。どうやら全身がガスに巻かれたために、急に怖くなったようだ。しかし、当のお父さんからもお母さんからも返事がない。だいぶ離れてしまったようだ。

私は、「そのままそこにいなさい、絶対に動いちゃいけない、すぐにそこへ行くから」と言って、急いでその子供の声のするところまで行った。そして、子供を捕まえてから、道の端に並んで腰を下ろし子供をなだめながら名前を聞いた。そして、親を探しながら子供の手を引いて、来た道を引き返した。ようやく親が見つかりほっとしたが、当の親がガスに巻かれた恐ろしさでしゃがみこみ、小刻みに震えて声もろくに出ない状態だった。そこで、コーヒーを沸かし、飲んでもらった。

ガスに巻かれたら、なるべく動かないで、ガスが薄れるまで気長に待てばよい。何も恐ろしいことはない。コーヒーでも飲みながら待つだけである。仮にそのまま夜になったとしても、夜が明け、ガスが薄れるまで待てばよい。

道は一本だし、瘠せた尾根道の両側は谷になっているので道を間違えることはないと私は判断し、ガスの中を道を確認しながらゆっくりと歩いた。ようやくガスから開放され、また、常念岳の頂上に立つことができた。頂上から来た道を振り返ると、ナイヤガラの滝のような流れの中で首だけ出している人が道に沿って連なっている。なんともおかしな光景で思わず声を出して笑ってしまった。

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