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経営相談どっと混む

第1回 今来た道が消えた

茅野駅発、美濃戸口行きのバスには、私の他には誰も乗っていなかった。土日を利用しての八ヶ岳山行だが、さすが厳寒期だ。1ヵ月ほど前の正月の雑踏が嘘のようだ。美濃戸口に着いてみると、やはりバス停前の店は閉まっていて誰もいない。バスを降りて出発の準備をしていると、いつのまにかバスが出て行ってしまった。

一人取り残されたことを知って急に寂しくなる。いっそ、1時間後の次のバスで家に帰ってしまおうか、とも思った。気を取り直し、「ディヤー!」と気合を一発入れ歩き始めた。足元を見ると、雪の上に同じ方向に幾つかの山靴の跡がある。しゃがんでよく見ると跡がはっきりしている。おそらく一つ前のバスで到着したグループだ。数人が先を歩いている、と思うと少し安心する。歩を進めるたびに足元の粉雪が舞う。冷たい風が頬を刺す。

しばらく歩いて行くと少し開けた所に出た。とその時、風がビューッと吹いた。粉雪が空高く舞い上がり、私の周りで踊り狂う。目を閉じてじっと待つ。しばらくして風が治まり目を開けてみると、目の前の景色が消えていた。

一瞬目を疑った。目の前が真っ白なのだ。今そこにあった木々はどこへ行ってしまったのか。先の方にづっと続いていた数人の足跡はどこへ。後ろを振り返ってみた。無い! 道が無い。私の足跡も無い。たった今歩いて来た道も、私の足跡も消えてしまっている。いったい何が起こったのか。恐くなった。手足がこわばった。背筋が冷たくなった。身体が震えた。何もわからず、そのまましばらく突っ立っていた。

ふっと、我に帰った。気を取り直してその場で足踏みをしてみた。すると足跡が付いた。すると、これはホワイトアウトか。こんな森の中でも起きるのか。かつて何度か稜線で出会ったことがある。だが、足跡まで消えてしまうということはなかった。まるで白い大きなキャンバスの中に自分が入ってしまったようだ。右も左も前も後ろもわからない。えーと、チンポコのある方が前で、けつの方が後だ。いや、そういう問題ではない、落ち着け! このまま動かずじっとしていることだ。

しばらくすると、また風がビューッと吹いた。風が治まると再び元の景色が現れた。ホッとして腰を下ろし、ザックの中からテルモスを取り出し、コーヒーを一口飲んだ。ようやく落ち着いてきた。

こんな話を聞いたことがある。江戸時代、武家屋敷に盗賊が入らないように、いろいろな仕掛けが施してあったという。その一つに、ある部屋に入ったら、その入った扉を閉めなければ次の部屋への扉は開けられない、という仕掛けがあったという。人間は、帰り道を遮断されると恐くなって、先へ進めなくなってしまうのだそうだ。このことを利用した仕掛けなのだという。今来た道が消えてしまって恐くなったのは、この人間の心理によるのだろう。たとえ周りの景色が消えてしまっても、自分の歩いてきた道さえ消えなければ何も恐くはないのだから。

子供の頃、迷子になった時のことを思い出した。帰る道が分からなくなって恐くなり、泣いたことを覚えている。山で道に迷った時にも、ガスに巻かれた時にも同じだと思う。こんな時には、まず腰を下ろし、お茶でも飲んで気を落ち着かせることだ。

ふと見上げると木々の梢からキラキラ光るものが下りて来た。七色の光をキラキラさせながらゆっくりと下りて来た。「ワーッ、きれいだ」。こちらの梢からも、あちらの梢からも、小さな小さな結晶がたくさん下りて来た。ダイヤモンドダストだ。「わっ、わっ、すげーきれい」。思わず立ち上がって、雪に足を取られながらその下に走った。見上げると私は宝石箱の中にいた。

※『新ハイキング』誌 98年2月号に掲載されたものに加筆修正したものです。

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