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1-2 イーライ・ホイットニーの少年時代

イーライ・ホイットニーは1765年12月8日、ボストン近郊のウエストボロー(マサチューセッツ州)で4人兄弟の長男として生まれた。ちなみに、アメリカが独立宣言をしたのが1776年なのでその10年ほど前のことである。イーライの父は農業を営むかたわら、当時のニューイングランド地域の多くの農家がそうであったように、兼業として自宅に小さな工場を持ち、馬車の車輪やイスを作っていた。このため工場には木工旋盤をはじめいろいろな道具があった。イーライの妹のエリザベスの話によると、イーライは子供のころから工場に入り浸っており、いろいろな道具を使っていつも何かを作っていたそうである。イーライは農業はあまり好きではなかったようだ。

イーライが子供のころ病弱だった母がなくなり家には家政婦がいた。あるとき父が2,3日出かけてから家に帰ったときに、家政婦に子供達は何をしていたかと聞いたところ、「イーライはフィドルを作っていました」と答えた。父はこれを聞いて、「あぁ、イーライはフィドルに取り付かれてしまったのだろう」と答えたそうである。しかし、このフィドルを多くの人たちに調べてもらったところ、子供が作った割には非常に優れたものであると評価されたという。このときイーライは12歳だった。ちなみにフィドルというのはバイオリンの原型で、有名なテレビ映画「大草原の小さな家」でも父親が自分で作ったフィドルを演奏している。

この時から、イーライはフィドルの修理の仕事をするようになり、いつも顧客に満足される良い仕事をするだけでなく、ときにはその仕事ぶりに顧客から驚かれたほどであった。さて、イーライの父は良い時計を持っており、イーライはその時計の内部構造を調べてみたかったが、父はそれを許さなかった。ある日曜日の朝、父がその時計を家に置いて教会に出かけるのを見て、イーライはとっさに病気のふりをして教会には行けないと嘘をついた。家族全員が教会に出かけるとすぐに、急いで時計のある部屋に行き、時計を手に取り、バラバラに分解した。そのときはあまりにもうれしかったので、自分の行為の結果がどういうことになるかについては考えもしなかった。というのも、父は厳格な人だったので、このことを知ったら、イーライは罰せられるに違いなかったからである。しかしながら、イーライはバラバラにした部品をすべてきちんと組立て、元のところに置いておいた。このことは数年後にイーライが父に話すまで、父は気づかなかったということである。

父が再婚したとき、イーライは13歳であった。継母は見事なテーブルナイフのセットを持っていて大事にしていたが、イーライはそれを見て、「もし、道具があれば僕はそれと同じものを作ることができる。その道具も自分で作ることができる。」と言った。継母はイーライが自分を馬鹿にしていると思い、非常に不愉快であった。しかし、まもなくそのセットのうちの一つが壊れてしまったので、イーライは全く同じものを作った。ただし、そのナイフの刃に付いていた刻印だけは同じにはできなかった。その後、同じナイフを作って販売することにした。そのナイフは実際に同じように使えたし、これほど安くて良いものはなかったという。

イーライ・ホイットニーが15歳のときに、イーライは父に新しい事業を行うよう熱心に勧めた。当時はアメリカ独立革命のために釘に対する需要が非常に大きく、しかも高価であった。当時、釘は主に手作りで作られていたが、作り手である鍛冶屋が不足していた。イーライは父に炉などの設備を購入し家内工業として鍛冶屋を立ち上げるように提案したのである。父はこの提案を承諾し、この事業をイーライは着実に実行した。イーライは彼自身が使う道具も作り、ナイフの刃に刻印したり、釘だけでなく多くの他の仕事を行った。イーライは地域の大人の技術者よりも優れた技術者であった。イーライは1人で仕事をし多くの利益を得た。

非常に忙しかったので、イーライは人を雇って事業を拡大する計画を立てた。その計画を妹に話したが、父には話さなかった。反対されるのを恐れたからである。あるとき父に隣町に行きたいので馬を貸して欲しいと言い、馬に乗って人を探しに出かけた。簡単には見つからなかったので、忍耐強く3日間町から町へと探し回ってようやく家から40マイルも離れたところでイーライの望む人を見つけた。また、この旅でイーライは技術を磨くこともできた。というのも旅の途中で多くの工場を尋ね、機械技術に関する情報を拾い集めたからである。

独立戦争が終わり釘の需要が減り釘ビジネスは儲からなくなった。そのころ、婦人がボンネット帽子を長いピンで止めることが流行したため、その止めピンを製造販売することにした。ちなみに、このピンの製造が後に発明した綿繰り器の歯の製造に役立ったという。イーライは持ち前の器用さで工夫を凝らし、このビジネスをほとんど独占することができた。また、このビジネスに加えて歩行用の杖も作って販売した。このように、イーライは人の役に立ついろいろなものを作って販売した。

イーライが住んでいたウエストボローは冬は寒く雪に覆われ農業ができなかったため、イーライは夏は主に農業に従事し、冬は家内工業に従事した。以上のようにイーライはまだ少年だったころから事業を行い、事業に必要な情報を得たり、数学や機械技術などを習得したりしていた。しかも彼は学校には行っていなかったので、すべて独学であった。妹のエリザベスの話によると、小さいころから母親の持っていた算数の本をぶつぶつ言いながら読んでいたという。読み書きについては地域の子供と同じ程度であったが、数学や機械技術については優れていたようである。

問1 企業家として芽生えるための条件は何だと思いますか。

問2 あなたの少年時代はどうだったですか。

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