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第85回 考えることを忘れた日本人
(2008年10月27日)

先日、ノーベル物理学賞を受賞された益川氏が文部科学大臣に対して「日本の教育は間違っている」と発言した、というよりも食ってかかるように言った。ノーベル賞受賞後に表敬訪問という形で関係閣僚に挨拶に回ったのだが、文部科学大臣と会見した際に、挨拶もそこそこに、「日本の教育は間違っている」と言ったのだ。

いきなりこう言われたので、文部科学大臣もニコニコ顔から突然緊張した顔に変わった。テレビを見ていてその様子が良くわかった。益川氏は続けて、「たとえば、大学入試の共通一次テストが間違っている。考えようとする意欲を失わせるテストだ。人は誰でも課題を与えられると考えようとする。しかし、共通一次テストは予め答えがいくつかあって、どれかを選択させるようになっている。考えることを求めるのではなく、記憶していることを求める問題だ。これでは考えるのを止めてしまう」と言った。さらに、「このテストは学生のためのテストではなく、採点者のためのテストだ。楽に採点できるように作られているのだ」と言った。いわゆる択一式とか◯☓式と言われているテストである。

共通一次テストの成績が良い人が良い大学に入学できるのであれば、良い大学ほど考えない人を優先的に入学させていることになる。そして、この共通一次テストで良い成績が出せるように、高校教育も、中学教育も、さらに小学校までもが順に遡って、考えることを求めない教育が行われる。益川氏が怒るのも当然である。益川氏がこのような教育が行われている日本の将来を憂うのも当然である。

このような教育は今始まったことではない。筆者もかつてこのような教育を受けてきた。教科書に書かれている内容や学校の先生方から受けた教育は、80%以上が創作ではなく学習であった。学習とは学び習うことである。学ぶとはその語源からわかるように「真似する」ことであり、習うとはその語源から「なぞる」ことである。つまり、先人が培った過去の知識を理解し、真似し、何度もなぞり、そして覚え、その知識を身につけることである。とにかく覚えろと意味もなく要求された。学校で受けた教育は思考力を育成することではなく、主に理解力と記憶力を育成することであり、その結果得られたのは過去の知識を身につけることであった。

ところが、学校を卒業して会社に就職すると、求められるのは知識ではなく知恵(アイデア)である。つまり、思考力が求められるのだ。なぜなら、企業は知識で競争しているのではなく、知恵(アイデア)で競争しているからである。商品やサービスを開発したり、ビジネスモデル(儲かる仕組み)を開発したりすることで、企業は他社との優位性を確保する。これらの開発あるいは日々の改善や創意工夫は全て知恵(アイデア)によるものである。知識によるものではない。

学生時代に創作をほとんどしたことがなく、また、思考力を高めるための訓練も受けていない者が、就職したとたんに知恵(アイデア)を出せと言われる。学生時代に創作したことと言えば、読書感想文を書いたり、絵を描いたり、工作や夏休みの自由研究などであろう。また、考える科目と言えば代表的なのが数学であろうが、それも、公式を暗記し、公式に当てはめることで答えを出すような問題が多かった。数学以外の科目では、ほとんどが内容の理解と暗記なのである。

会社に就職し、考えろ、創意工夫しろ、改善しろ、開発しろと言われても、できるわけがない。全く訓練を受けていないのだから。それで企業ではこれらができるように訓練し直さなければならない。しかし、どのように訓練すればよいかわからない企業が多い。それで、従業員の思考力を高める訓練ができる企業が競争に勝ち、できない企業が負けることになるのである。

学習は過去の知識を身につけることであり、このためには、まず理解し、そして何度も練習することである。一方、創作は誰も考えたことのないことを考え出し、作ることである。つまり、過去の知識ではなく新たな知恵(アイデア)を出すことである。このためには、まず考えることである。益川氏が言うように、人間は課題を与えられたら誰しも本能的に考えるものである。考えるということは人間の本能なのである。したがって、あえて考えろと言う必要はない。課題を与えさえすればよいのである。しかし、その人に合った課題を与えなければならない。しかし、どのような課題を与えれば良いかわからない上司が多い。なぜなら、上司自身もどのような課題に取り組めば良いかわからないからである。

哲学者パスカルは「人間は考える葦である」と言った。人間を言い表す言葉として、これほど的確なものはないと筆者は思う。パスカルが言うように、人間はあらゆる生き物(動物と植物)の中で、最も弱い生き物である。一滴の夜露でもしおれてしまう葦のように弱い生き物である。しかし、人間は考えることができる。考えることができる生き物である。人間は考えることによって文明や文化を発達させた。他の生き物にはそれができない。

かつて、人間と他の生き物との違いは何かについて、いろいろな説があった。筆者が学生のころは火を使うことができるのが人間で、できないのが動物である、とか、道具を使うことができるのが人間で、できないのが動物である、とか言われた。しかし、その後、動物も火や道具を使うことがわかってから、今度は学習できるのが人間で、できないのが動物であるという説が唱えられた。しかし、最近になってサルや鳥が学習することがわかった。さらに、ごく最近になって、アメリカのミシガン大学の研究で簡単な計算ができるチンパンジーが紹介され、人間の幼児に近い思考力を持っていることが証明された。また、逆に、分数ができない大学生が話題になった。

考えるのは人間の本能である。幼児でも思考力を持っている。しかし、幼児の思考力のままでは何もできない。思考力を高めなければいけない。では、どうすればよいか。それは教育をしないことである。本来、企業では教育はできないはずだ。答えが誰にもわからないのだから。学校と異なり企業では過去の知識を教えてはならない。自分で考えさせるのである。自分で答えを導き出すように仕向けるのである。このためには、課題を与え、序言すればよい。課題を与え、その課題解決のための序言をする。答えの導き方について助言するのである。

予め答えがあるのを教えるのが教育であり、答えがないのを答えに導く手助けをするのが序言である。実は助言をするのがコンサルティングである。つまり、コンサルティングとは課題を提案し、課題解決のための答えの出し方を助言することである。答えそのものはコンサルタントはもちろん誰にもわからない。コンサルタントは答えがわからないのであるから先生ではない。企業でも同じである。上司は部下を教育してはならない。課題の提案と序言を行い部下に考えさせるのである。

ところで、コンサルティングで企業から必ず求められるのは、他社事例である。つまり、他社の答えである。課題を出すと安易に答えを求めるのである。そして、他社事例を紹介すると、ほとんどの企業ではそれをすぐに真似しようとする。他社の答えを真似しようとするのは学習である。学生時代から学習することに慣れていて、考えようとしないのである。これは日本の間違った教育の結果ではないだろうか。日本人の多くは考えることを忘れているのである。人間でありながら考えるという本能を忘れているのである。つまり、すでに人間ではなくなっているのである。哀れと言うしかない。

他社事例は参考にはなっても何の役にも立たない。他社事例はその答えに至った考え方が参考になるのである。他社事例そのものは何の役にも立たない。それに、他社事例を真似しようとしても真似できない。顧客が異なる、取扱商品・サービスが異なる、経営戦略も異なる、経営資源も異なる、企業風土も異なるなどが理由である。自社の答えは自社で出さなければならない。

ある企業で全く異なる業界の他社事例を話した。その企業では業界が全く異なるから、役に立たないと言った。一方、他の企業で同じように全く異なる業界の他社事例を話した。その企業では非常に役に立つと言った。これが負ける企業と勝つ企業の違いである。負ける企業は他社事例を真似しようとする。しかし、真似できない。勝つ企業は事例そのものではなく、なぜそのような事例(答え)が出せたのかを考え、その方法を自社に取り入れるのである。

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